ガラスの大地

詩や日記を書きます

日記:何?

 

 

”夢も学も職も金もない女が上京するとき、彼女らは男に股を開くことで男の家に転がり込み、そして体を資本にして生活するしかないという現実の前では、あなたの饒舌に回る口も、自己弁護のためにしか働かない脳みそも、俺に対して説教するその顔も、朝に起き夜に眠るその姿は実に滑稽ではないか?”
 
もしやりたいことだけやっていいならこの世界から俺以外全員死んでるし俺ももう死んでるよ。
みんなどっかで我慢してるって?知らねえ、うるせえ。
 
日記を書いていたけど、あまりにも自虐的な上に現実の人物を登場させすぎたので全部消した。
 
 
 
鬱病から逃れるためにタスクを増やしまくったら首が回らなくなった。今日は車校を休んだ。自腹なのに。
 
簡単なタスクばかりなのに量が多すぎてもはや何も手につかなくなった。とはいえ映画も見れない。ゲームもできない。見る配信もない。何もしていないのに疲れた。息を抜く必要すらない一日だったのに。
意味が分からない。
 
 
でも今日は友達と映画を見た。楽しかった。
でもかつて友達に一緒にやろうと言われていたゲームに誘われなかった。悲しかった。わざわざ覗きに行かなくても通知だけは来てしまうのでOFFにした。本人に俺を誘ってくれ!って言いたい。言えるわけない。なんなの?一体おれはどこに着地すればいい?
 
 
涙を流すことはなくなった。いいことなのかな。
ただ、あの日あの時、水分として消化されていた俺の苦しみは皓々と輝くシャーデンフロイデになっている。
笑えない冗談。誰か俺を殺してください。
 
 
 

愛(アウトサイダー)

 たぶん、俺は社会不適合者のことが好きだ。俺自身がそうであるように、彼(彼女)らには世界で生きていく上で決定的な欠落がある。
それは人間性だったり社会性だったり、部屋が汚かったり忘れ物が多すぎたり、大きなことから小さなことまで、社会的に良しとされているものに背を向けている。俺はそんな人間のことを愛しているのだ。

 

 

 おれたちはみな一様に社会の中であがいている。企業に就職した者たちはやりたくもない電話やメールの対応をし、もちろん報連相は苦手で、いつの間にか明日に迫った納期の前に絶望し、己の無力さに涙を流す。俺たちは唇を噛みしめもしない。
そうでないものはインターネットか夜の街に住み着く。昼夜逆転の日々のなかで女は得てして傍若無人に振舞い、男はその靴を舐めている。またはその逆である。俺たちは最も傷つかず最も楽な生き方を選び続けている(つもりだ)。
そんな日々の刹那的な快楽の行きつく先が鬱病であることを理解しているものはいない。得も言われぬ”満たされなさ”に己が満たされていることに気付いたとき、俺たちはすでに病棟にぶち込まれているか、自宅の鴨居に首を吊るして死んでいるから。

 

 

 そんな俺たちの愛おしさとは、自らの歪みと欠落に気付いていない、あるいは目を背けているという点にある。
世界で生きていく上で社会通念上”普通”とされる価値観を俺たちはそれなりに学んできた。それでも働けない人は働けないし、笑えない人は笑えない。
空気を読むこともできなければ、友達の悲しみをすくい上げてくれることもない。それぞれにそれぞれの理由があって、みな正しいと思ったことを実行しているつもりだ。
でも、俺たちは社会に適合できていない。大多数の人間が歯を食いしばって必死こいて生きている中、それらのいろいろを放棄した上で必死こいて生きている。鏡を見てみたらそこにいるのは客観的な視点を排除した愚か者の顔だ。なにもできないくせに自分は普通(一旦あえてそう言う)の人間であると思っているかもしれないが、働くこともできず、やればできるんだって信じて、日銭を稼ぎ、そして酒とたばこに消え、夜に起き朝に眠り、昨日と同じ今日を過ごして呆然とする、そんなものを果たしてまともな人間生活と呼べるだろうか。


 でも、そうして鬱屈とした矛盾を抱えて生きることに命の輝きが見える。たくさんの無駄を孕んだ毎日を過ごしているうえに、まともな幸福が欲しいと願う俺たちの一縷の輝き。無駄を無駄とせずただのうのうと生きていたとして、それがすごく社会通念から外れているのにへらへらとできる俺たちの人間性を幸福と呼ばずになんというのか。

 

 

 

 そもそもズレているほうが面白い。俺がそういった人たちのことが好きなのはそういう意味でもある。
つまり自分の欠落は許すのに、相手の欠落は許さない俺たちのことだ。
理にかなわないこともできるのが人間の要素の一つだとしたら、これこそあまりにも理にかなっていない。でもこれが人間を人間たらしめていると思う。俺たちの欠落を許してくれないか。あなたの欠落を許すから。

まあ、自分には甘くて他人には厳しいやつと実際対面してみると非常に苛立つこともしばしばだが、どうしても嫌いにはなれない。

 

 ・・・とはいっても嫌いなものは嫌いだ。どうしても好きになれない人間はやはりいる。社会不適合とはいえ、暴力を振るったりなどこちらに実害を加えてくるものは近づいてほしくない。端から見たら面白いのはたしかではあるが。
俺は俺に説教してくる人間が嫌いだ。てめーは俺の親か?俺は自分のことを疑わない人間が嫌いだ。自分のことをそこまで信じていられるのなら、もう少し他人に優しくできるだろう?

でも大抵は距離を置けばなんとかなる。モニターの向こうに幽閉してしまえばいい。

幸い令和にはブロックもミュートもあるのだ・・・

 

 

俺は好きな女の子とデートしたあと、かならず関係が悪くなる。どう考えても俺が悪いのは確かなんだが、どこが間違っているのかてんでわからない。
もっとしっかりとしたデートプランを組むべきだったのだろうか。もしかして酒飲んだあとホテルに誘わないのが悪いのか?


一つわかるのは現実の俺は、電子上の俺より数倍面白くない。そもそも好きな女の子の目が見れない。惰弱な精神がなす、ひ弱な男だ。
頼りないのだろう。あれもこれも相手に合わせる癖がある。君と一緒ならどこでも楽しいよって、もしかして君もそう思ってくれていたのかな。
自分に自信にないからそうして保険をかけてしまうのか?君がこれかわいいねってぬいぐるみを見て言ったときじゃあプレゼントしてあげるって簡単な言葉も言えなかった。
手でもつなげばよかったのかな?なんにもわからなかった。

次こそはと、いつも思っている。原因がわからないのなら対策のしようもないのに。笑える話だ。
そして静かに遠ざかっていく君の心を見ながら俺は俺の心を摩耗させて、いつも同じ結末だ。
つまり、失敗するのをわかっているのに特攻する。白黒はっきりさせろって!嫌いなら嫌いって言ってよ!

何度も後悔してきた。でも安心するんだ。想像通りの結果が欲しいだけ。

多分、俺は俺のことしか愛していない。そんな自分のことを憎悪してもいる。

矛盾を孕んだ状況を他人のせいにした。でもそれはもうやめた。

愛とは、恋愛だけではないのだ。

 

 


愛は安心の中に生まれるとどこかで聞いた。
相手のことを想ったとき、なるほどあなたの健やかな笑顔こそが安心の源だったんだと感じられたらいい。
そしてそれをあなたにも与えてあげたいと思う。そのために、俺だけでも、もう少しだけ、己の未熟さと対峙するべきだ。
努力も失敗もすべて俺のものだ。俺は俺のためにしか頑張ることができない。でもそれが、俺が俺自身を愛することが、なるべくしてどこかにいる”あなた"の笑顔につながること願う。
祈りは、最も小さく最も効果的な安心だ。手を合わせ、祈ろう。それが、なるべくしてどこかにいる”あなた"の笑顔につながること願う。

 

ぜんぶ、どこでも、いっぺんに。

インターネット上の嫌韓嫌中の雰囲気がいよいよ耐えられなくなってきてしまった。

僕はずっとインターネットにいるから、多分一切インターネットを使わない人と比べるとそういった悪意を直視しやすい。まだまだ残る匿名性を利用したひどい投稿をよく見かける。正義をもって悪を成すために全てを肯定するあの態度には、正直辟易している。そしてこれは何も日本人に限った話ではなくて、中国人側もそういった思考をしていると感じる。

 


私の友人も中国が嫌いだ。でもそれは日本に生きていたら仕方のないことだと思う。中国だって日本のことを嫌い(見下している)な人間は数多くいる。あることないことがいつもインターネットを駆け巡り、そこには理性も知性もなく、ほとんどが感情的な「嫌悪」であるくせに、みな自分の知性を疑わない。己の内から湧き出た理性的な結論であると信じている。

発展したインターネットのおかげで、与えられた情報を疑う癖はついているのに、自分の中から生まれた(と信じている)理論に疑いの目を向けることを知らない。だから「私にとって正しい」を今一度否定してあげてほしい。そうなると世界の中で立ち往生してしまうかもしれないけど、多分よりリアルな想像力を得られる気がする。

そう思うのは僕が中国人の両親から生まれた日本人だからだろうか。

多様性が騒がれる昨今だが、これは何もジェンダーや肌の色に限った話ではないし、そしてそれらを手放しで認めることを「多様性」と呼ぶわけじゃないんだと思っている。「多様性について考える」とは、「想像力を現実にする」ということだ。得てして想像は現実に届かないから。

 


『Everything Everywhere All At Once』という映画が、今年のアカデミーなんたら賞を受賞していた。あらすじを簡単に話すと

アメリカに移住した中国人の母と、アメリカで生まれアメリカで育った中華系アメリカ人の娘との確執を描いた下品なコメディ家族ドラマ」だ。

アカデミー賞を受賞した背景にはアメリカを取り巻くポリコレやら多様性やらいろいろと忖度された部分もあるのだろうが、大きな理由の一つとしておそらくアメリカに多く住む「中華系アメリカ人」にとてもウケたことがあると思う。そして、僕もひどく食らってしまった映画だ。

 


少し自分の話をさせてほしい。

先の大戦文化大革命などによる荒廃の影が色濃く残る1960年代の中国にとって、諸外国は輝かしい未来の象徴だったのだろう。たくさんの人々が外国に移住したと聞くし、実際私の母は父と結婚してすぐに日本に移住した。そして働きながらも姉と僕を産み育てた。

中国人として、日本語がわからない人間として、文化の違う蛮族として、優しさも悪意も母はどちらも受けてきたと思う。

そんな中で僕も僕で母に反抗したことが数多くある。家の中は中国なのに外に一歩出たら日本になるのは、まだ小さかった僕には大きな大きなギャップの一つだった。日本語は喋れたがそこに上手に日本的感覚が乗らない。ニュアンスの中に必ず中国の価値観が挟まってくる。言葉が行動に伴っていない。小さな頃の自分にとって、二つの文化に挟まれるというのは、十分すぎるほど苦しいものだった。イジメられたことは少ないけど、やっぱり少しはあった。無視されたり集団で罵倒されたり苗字を揶揄われたり。担任にこういうことをされましたと言いつけても担任は笑いながらぼくに「嘘つき」と言った。その後クラスの真ん中で「〇〇くんがぼくにこんな酷い言葉を言いました」と名指しで言わされたこと、そして「俺はそんなこと言ってない」と言ったイジメっ子の言葉を無条件に信用したあの担任のことを忘れられない。

自分が何人であるか疑わなくなったのは大学生からだ。それまでずっと自分はちゃんとした日本人ではないというコンプレックスを抱えながら生きていた。僕の名前を見て「お前中国人だろ」と不躾に聞いてくるジジイ、採用試験の時に経歴も全て書いてあるのに日本語が不自由だと思われていること。いろいろと経験もしたけど、今では自分の血に誇りすらある。中国語の会話と読み書きができることを無駄な技能だと感じたことは一切ない。

もちろん中国と中国人の目に余る道徳のなさはかなり嫌いだが、それでも僕の故郷には間違いないのだ。

 


僕はこの映画を見て3度泣いた。勝ち気で負けず嫌いの母親が見知らぬ国で産まれた我が子を打ちのめされないように強く育てようとしたこと、二つの文化に板挟みにされ自らを見失いそうでどちらかに縋ろうとする娘、どちらの心情もあまりにもよくわかるからだ。

悪評の中にはポリコレに対する忖度でつまらなかった(つまらないはそれはそうかもしれないから別にいい)というものもあったが「毒親とバカガキのくだらない家族ドラマ」という批評には当然納得できない。

中国人の母とはああいうものだ。それを日本人の物差しのみで毒親と切り捨てるのは想像力が足りていない。我が子に全てを捧げ、知らない社会に押しつぶされないように必死に抵抗することが彼女らの生き方だ。憎しみで語ることは相互理解から最も遠い。

 

映画の中でもそうだった。だから父親役の男は「君は強いけどこの国で一人で生きていけはしない。押しつぶされてしまう。だから僕は、君にはない優しさで家族を支えたいんだ」と言った。

家族愛の形が国ごとに違うのだ。優しさのみで生きていけるほど世界は優しくない。どちらが正しいかではない。ただ四角と丸と三角なだけ。形の違う愛があるのに、それを「毒親」だなんて...

僕の母の苦労や悲しみを見ていたら「毒親」だなんて言えるわけがない。だから想像は現実に届かないのだ。

 

当事者としての感覚はきっと永遠に理解することはできないだろう。僕はアメリカ人のキリスト教への感覚やロシアへの疑念を、アメリカ人と全く同じようには理解できない。銃社会の恐怖など日本に住んでいたら完全には想像できない。

でも、だからこそ僕らは想像力を使って知らない現実に到達する努力をしなくてはならない。全てを経験することはできないから。

目には目を、歯には歯をなんて現代にリバイバルさせる必要はない。下卑た行いをする人間に対して同じ目線で付き合う必要はない。ついこの間も日本人を揶揄するひどく下品な歌を歌った中国人がいたが、あれに付き合ってやる必要はないのだ。Xのポストに「天安門事件」と付けたらスパムが飛んでこなくなるが品がないよね、という話に「相手が品がないのだから良い」とする態度には理性がない。

 

怒る前に彼らを理解するほうが根本的な解決に至れると思わないだろうか。異文化を取り込む強さを持ってほしい。皆が皆流されるままに嫌悪するのは...すごく悲しいよ。

 

これが多様性の最たる難しさであり、達成する意義だと思う。

己の知性を疑うことだ。誰もがたどり着ける最良の未来は、憎しみじゃたどり着けないのだと僕はずっとずっと信じる。

鈍いありさま

焼け焦げた黒いトンネルの中に私はたたずんでいた。
それはひどい有様で、くすぶる煙といやなガソリンの匂いで満ちた長い空洞。全長はどれだけあるだろうか。目が覚めたらいきなりトンネルの中で、ずっとここまで歩いてきたけれどもう時間の感覚もなくなってしまった。幸い季節は夏のようだから凍える心配はない。まばらではあるものの壁には電灯がついているので明かりの心配もない。ただどれだけ歩いても出口は見えなかった。鈍いふくらはぎの痛みにだけ現実感がある。そのほかは全部夢みたいだ。

私以外に人の気配はない。だが、こんな状況に陥ってもなぜか不安はなかった。前後のどちらが入り口でどちらが出口なのかは知る由もないが、歩いていけばいつか出られるのだと思い込むことにした。だれか助けに来てくれるかもしれないし、明かりも整備されているのなら、いつか唐突に出口の看板があるんじゃないかと思いながら歩いている。そうじゃなかった場合なんてのは想像もしていない。私の良いところであり悪いところだ。

この長いトンネルの中じゃ他にやることもなく、自分のことを思い直す時間ばかりがある。生まれたときの記憶から痛む脚のことまで脳内ではいろいろな思い出が飛び交っている。どれもこれもこの長いトンネルを抜け出す糸口にはなりそうにない。私は地面のはがれたコンクリートのかけらを蹴りながら歩き続けた。カラカラと軽い音をたてて転がっていくかけらを見ながらさらに思い出を反芻する。思い出し終わったらもう一度思い出す。楽しかった記憶と悲しかった記憶を交互に組み立てながら歩く。ときに笑いときに涙したいくつかの記憶はどれも美化されていた。思い出の中でまで苦しみを味わう必要はない。

蹴っていたコンクリートが唐突に視界から消えた。目の前には突然の断崖。これ以上は前に進めないらしい。来た道を戻る。長い長いトンネルだった。くすぶる煙といやなガソリンの匂いで満ちた長い空洞。人の気配はなく時間の感覚もない。世界には自分しかいないんじゃと錯覚するほどの静寂。自分で自分の足音すら聞こえなくなるほどの過去への夢想。現実なのは脚の痛みだけ。

ふと思い出しポケットをまさぐった。たしか家を出る前に父にサンドイッチを持たされてたはずだ。ラップで包まれたサンドイッチはソースのからしマヨネーズがあふれてべちゃべちゃになっている。取り出して食べた。味は変わらず絶品だ。これで痛みも少しはまぎれるだろう。痛いことが勲章だとでも思っていたのか?そう思って少しニヒルな気持ちになった。自己弁護だけはいっちょ前だ。

今夜はここで野宿してもいいかな。そう思った矢先に遠くに二つの光。車のヘッドライトに見える。ゆっくりと近づいてくるそれは、やっぱり車だった。モスグリーンの車体に黄色いライト。運転席には黒い影が乗っていて他にはいない。後部座席に乗り込むとエアコンの風が背中の嫌な汗を自覚させた。
影に話しかける。「乗せてくれてありがとうございます。もう今日は寝てしまおうかと思ってたんです」私の言葉に黒い影は答えない。
影は小さく呆れたようなため息をついて、車を走らせた。数時間ほど経ったころ、車はついにトンネルから抜け出した。雲一つないみごとな快晴の空に目を眩ませながら礼を言った。影は何も答えず、そのままどこかへ行ってしまった。降ろされたのは地元の駅前だった。ここまでくれば自分で帰れる。脚の痛みなんて忘れていた。

ぬるいぬかるみ

 

 

 

僕は部屋から出られない
自分の部屋から出ることができない
美しい記憶を作りたくとも、やさしさでぬかるんだこの部屋に足をとられて
いつだってベッドの上で泣いている
かつて祖母の家から見たあのオレンジ色の街灯が恋しい
寝苦しい夜には羊の代わりに天井を走る車の影を数えていた
古いエンジンの音と容赦ない排気ガスの匂いを今でも思い出せる
父と母は祖母の家を嫌っていたが、僕はそれでも、ひたすらに心地よかった
日本では感じられない、人目を憚らないという彼の国の当たり前が、新鮮に
そして強烈に僕の心を育んでいた

 

僕の部屋の天井には何も映らない 街灯も月明りも
暗闇の中で虫と鴨の鳴き声ばかりが響き、朝5時には発情期の鳩に起こされる
子供のころは受け入れられた世界の自由さは、今では傲慢さになってしまった
歳をとればとるほど、知れば知るほど、世界には許せないものが増えていった
知らない誰かの無責任な一言に知らず腹を立てていたり、母の小さな挙動にいらついていたり 彼女の無邪気な一面に怒りを覚えてしまうこともある
でも恋に落ちたことなんてない
対象のことを考えれば考えるほど、優しくすればするほど、僕の脳みそはバグっていって、好きなんだと勘違いしていく
勘違いに勘違いを重ねていけば自分の本心はどんどん曇っていく

ハリボテの心は砂山でやる棒崩しだ 初手でたくさんの砂を搔き捨てるから、棒はすぐに倒れる 

いいことか悪い事かなんてわからない その最中はどれも本心だろうし

こうやって感情を決め付けて自分を慰めて はは おもしろいね

 

母と父の大きな愛と優しさで育てられたという自覚があり、そのせいでいつまでも子供のままである
両親は当たり前に何も悪くはない
この部屋の空気が雨が降った夏のグラウンドみたいにぬかるんでいるのは、何もかも、僕の責任だ
ただ、なんだか足を取られている気がする
来年には家を出たいと考えているが、多分難しいだろう
気力や性格の問題ではなく、純粋に金がない(悲しいことに)
この実家の甘美な束縛から抜け出したい 
自由という空白を味わいたい
人と社会の断絶を体験したい 

どこまでも僕は個人でしかないことを全身全霊で自覚させてほしい

一人暮らしなんてみんなやっていることだ そんな難しくないはずなのに

理想と現実はいつまでも乖離し続けている

そして原因の一旦は明らかに僕にある

でも一人で生きたい
そして愛する人間と幸せになりたい
そこまで傲慢な考えだろうか 多分、世界のほうがよっぽど傲慢で、無慈悲だ

うん、ちょうどいい きっとそれくらいでいい

 

日記:喜びのデーモン

 

 

 

多大なストレスにさらされたとき、皆はそれをどうやって解消しているだろうか。
好きな音楽を聴いたり、サウナに入ったり、焼き肉に行ったり、大声で歌をうたったりだろうか。
ありきたりなストレス解消法ばかり思いつくけど、別にストレスはそんなんじゃ解消されないような気がする。
結局ストレスを生み出している根本の原因をつぶさなければ、次の日にまた同じことが起きてイライラするだけだ。
幸運なことに僕は寝ると前日のストレスが解消されるタイプなので、引きずったり悩んだりすることが少ない。
でも、継続的な苦しみは矢継ぎ早にやってくるので、いったん解消されたとてすぐに襲ってくるためとてもしんどい。
仕事がうまくいかないとか、彼女と大喧嘩しているとか、簡単には解決できない問題に直面したとき、僕らはどうやってそれを乗り越えてきているのだろう。
結論を言えば、取れる手段は2通りしかないと思う。つまり、逃げるか戦うかだ。そして、多くの人は逃げるのだと思う。
戦うよりも逃げるほうが明らかに消費カロリーが少ないため、すでに受けたストレスを増大させてまで戦ったところで、得られるものは「ストレスの原因」がなくなるだけだと考えると、あまりにもリターンが少ない。その原因が自分にあるか別にあるのかは置いといて、すでにマイナスになった生活を0に戻すためだけに戦うのはなんだか非常に後手に回った気がしてムカつく。原因が自分でないのならなおさらムカつく。
でも、僕は戦いたい。これはメリット/デメリットの話ではなくて、自分がないがしろにされていることを許している自分を許せないのだ。
原因が自分にあったとて、責任が自分にあったとて、なぜ舐められなくてはならないのか。ひどい扱いを受けることに慣れてしまう前に抗ってみたほうがいいんじゃないかなと思う。ただこれは理想の話であって、僕も多くの場合は逃げてしまう。だって楽なのだから。
そうやって舐められて、逃げて、いつの間にか自分自身の価値が下がっていって、そんな自分も受け入れて、、、の繰り返しを続けていると自分でもほんとの自分を忘れてしまう。かつての自分を思い出せなくなるほど擦り切れてしまったら、きっともう不可逆なんだ。

 

そんなこんなで生きている人って結構多いんじゃないかな。僕の身近な人で言えば姉貴なんかがそうだ。
死にたくなるほど残業をして、暴飲暴食でぶくぶくと肥え、酒を浴びるように飲み、結局男には見向きもされなくなって、実家に帰ってきてはヒステリックを起こしてから帰る。私たち家族のことは特に気にも留めない。多分それくらい追い詰められているんだと思う。彼女は昔からそうだった。いったい何が彼女をそうさせたのか、母の教育だったか単に環境の問題だったか。理由はなんにせよ、今限界を迎えているのならば、彼女には逃げてほしいと思った。恥も未来も、今がなければ生まれない。戦ってもいいのだけれど、だとしたら戦う相手を間違えている。僕らを相手に発散しても明日には同じ苦しみがやってくる。同じことを繰り返しても生産性はない。そうなってしまうくらい疲れているのならば僕らの手を握ってほしいと思った。こういうときに助けることが家族の役割だと思う。

 

僕自身のことを言えば、多分痛みを受け入れることを男らしいと考えている節がある。それこそストレスが僕を鍛え、強くしているのだと考えている。


 産まれし者よ聞け。生とはただ美しいものにあらず。
 生ける者には苦痛を知り、災難を知り、絶望を知る。
 あらゆる辛苦は振りかかり続ける。
 焼けた道を行けど褒賞はなく、道の傍らにはいつも、死が口を開いている。
 それらはお前を恐れさせ、嘆かせ、苛み、悩ませるだろう。
 だが、目を閉じてはならね。かくのごとき生を見据えよ。
 お前を打ちのめしている辛苦は、しかし、お前を弱くしてはいない。
 ひとつひとつが、焼けた鉄に振り下される鎚に似て
 お前を、強き剣と、成すだろう。

 

これはFF14に出てきた僕が大好きな一節だ。僕を打ちのめしている辛苦は、僕を強き剣にしている。
そう信じている。このストレスを無駄に消化して逃げることを僕は良しとしない。したくないと思う。
ウザい友達がいても、仕事がいかに苦しくても、なるべくそれらから逃げない。抗いたい。逃走は最後の手段にしたい。(逃走と闘争が同音なのおもしろ)
自分が弱いという自覚があるからこそ、そんな辛苦から逃げたくない。与えられたカードで戦い抜くことは僕たちの持つ権利だと思う。
最後まで戦ってから逃げればいい。世界の主人公は自分自身だ。
終わりにはきっと報われる。報いが幸か不幸かは知らないが、報いはかならずやってくる。
それまで自分を裏切らず、呪いを吐くことなく、戦い続け、時々休んでも逃げてもいい。
世界はクソったれでどうしようもなく壊れているから
どれだけあがいても惨めに終わる可能性だってあるけど
そうじゃない可能性だって同じくらいある。
命の喜びをあきらめないでほしい。どこにでも道はある。
明日も美味い飯を食いタバコを吸って生きる。映画も見るし、酒も飲む。
モテたいから運動もする。未来の喜びを求めて。

しらない

 

 

 

まだ熱を帯びたアスファルトの上に寝転んで夜が明けるのを待ちたい
ページに落ちた汗が乾く前に眠りにつきたい
透けた窓ガラスの向こうに芽吹く若葉を見て穏やかになりたい
なぜベッドの上で訳も知らない涙を流す夜があるのか知りたい
ピンクのゾウの夢を見たい
溶けた氷を見て笑顔になりたい
最期の日は大きな怪獣に踏みつぶされたい
世界の中心で愛を叫びたい
過去を乗り越えたからこそ今があると主張したい
心を覗き見ることが自由への第一歩だと勘違いしたい
日々は地続きではなくどこかで断絶されているのだと、僕の悲劇は唐突にやってくるのだと誰かに認めてほしい
命の証を残してみたい