ガラスの大地

詩や日記を書きます

鈍いありさま

焼け焦げた黒いトンネルの中に私はたたずんでいた。
それはひどい有様で、くすぶる煙といやなガソリンの匂いで満ちた長い空洞。全長はどれだけあるだろうか。目が覚めたらいきなりトンネルの中で、ずっとここまで歩いてきたけれどもう時間の感覚もなくなってしまった。幸い季節は夏のようだから凍える心配はない。まばらではあるものの壁には電灯がついているので明かりの心配もない。ただどれだけ歩いても出口は見えなかった。鈍いふくらはぎの痛みにだけ現実感がある。そのほかは全部夢みたいだ。

私以外に人の気配はない。だが、こんな状況に陥ってもなぜか不安はなかった。前後のどちらが入り口でどちらが出口なのかは知る由もないが、歩いていけばいつか出られるのだと思い込むことにした。だれか助けに来てくれるかもしれないし、明かりも整備されているのなら、いつか唐突に出口の看板があるんじゃないかと思いながら歩いている。そうじゃなかった場合なんてのは想像もしていない。私の良いところであり悪いところだ。

この長いトンネルの中じゃ他にやることもなく、自分のことを思い直す時間ばかりがある。生まれたときの記憶から痛む脚のことまで脳内ではいろいろな思い出が飛び交っている。どれもこれもこの長いトンネルを抜け出す糸口にはなりそうにない。私は地面のはがれたコンクリートのかけらを蹴りながら歩き続けた。カラカラと軽い音をたてて転がっていくかけらを見ながらさらに思い出を反芻する。思い出し終わったらもう一度思い出す。楽しかった記憶と悲しかった記憶を交互に組み立てながら歩く。ときに笑いときに涙したいくつかの記憶はどれも美化されていた。思い出の中でまで苦しみを味わう必要はない。

蹴っていたコンクリートが唐突に視界から消えた。目の前には突然の断崖。これ以上は前に進めないらしい。来た道を戻る。長い長いトンネルだった。くすぶる煙といやなガソリンの匂いで満ちた長い空洞。人の気配はなく時間の感覚もない。世界には自分しかいないんじゃと錯覚するほどの静寂。自分で自分の足音すら聞こえなくなるほどの過去への夢想。現実なのは脚の痛みだけ。

ふと思い出しポケットをまさぐった。たしか家を出る前に父にサンドイッチを持たされてたはずだ。ラップで包まれたサンドイッチはソースのからしマヨネーズがあふれてべちゃべちゃになっている。取り出して食べた。味は変わらず絶品だ。これで痛みも少しはまぎれるだろう。痛いことが勲章だとでも思っていたのか?そう思って少しニヒルな気持ちになった。自己弁護だけはいっちょ前だ。

今夜はここで野宿してもいいかな。そう思った矢先に遠くに二つの光。車のヘッドライトに見える。ゆっくりと近づいてくるそれは、やっぱり車だった。モスグリーンの車体に黄色いライト。運転席には黒い影が乗っていて他にはいない。後部座席に乗り込むとエアコンの風が背中の嫌な汗を自覚させた。
影に話しかける。「乗せてくれてありがとうございます。もう今日は寝てしまおうかと思ってたんです」私の言葉に黒い影は答えない。
影は小さく呆れたようなため息をついて、車を走らせた。数時間ほど経ったころ、車はついにトンネルから抜け出した。雲一つないみごとな快晴の空に目を眩ませながら礼を言った。影は何も答えず、そのままどこかへ行ってしまった。降ろされたのは地元の駅前だった。ここまでくれば自分で帰れる。脚の痛みなんて忘れていた。