ガラスの大地

詩や日記を書きます

ぜんぶ、どこでも、いっぺんに。

インターネット上の嫌韓嫌中の雰囲気がいよいよ耐えられなくなってきてしまった。

僕はずっとインターネットにいるから、多分一切インターネットを使わない人と比べるとそういった悪意を直視しやすい。まだまだ残る匿名性を利用したひどい投稿をよく見かける。正義をもって悪を成すために全てを肯定するあの態度には、正直辟易している。そしてこれは何も日本人に限った話ではなくて、中国人側もそういった思考をしていると感じる。

 


私の友人も中国が嫌いだ。でもそれは日本に生きていたら仕方のないことだと思う。中国だって日本のことを嫌い(見下している)な人間は数多くいる。あることないことがいつもインターネットを駆け巡り、そこには理性も知性もなく、ほとんどが感情的な「嫌悪」であるくせに、みな自分の知性を疑わない。己の内から湧き出た理性的な結論であると信じている。

発展したインターネットのおかげで、与えられた情報を疑う癖はついているのに、自分の中から生まれた(と信じている)理論に疑いの目を向けることを知らない。だから「私にとって正しい」を今一度否定してあげてほしい。そうなると世界の中で立ち往生してしまうかもしれないけど、多分よりリアルな想像力を得られる気がする。

そう思うのは僕が中国人の両親から生まれた日本人だからだろうか。

多様性が騒がれる昨今だが、これは何もジェンダーや肌の色に限った話ではないし、そしてそれらを手放しで認めることを「多様性」と呼ぶわけじゃないんだと思っている。「多様性について考える」とは、「想像力を現実にする」ということだ。得てして想像は現実に届かないから。

 


『Everything Everywhere All At Once』という映画が、今年のアカデミーなんたら賞を受賞していた。あらすじを簡単に話すと

アメリカに移住した中国人の母と、アメリカで生まれアメリカで育った中華系アメリカ人の娘との確執を描いた下品なコメディ家族ドラマ」だ。

アカデミー賞を受賞した背景にはアメリカを取り巻くポリコレやら多様性やらいろいろと忖度された部分もあるのだろうが、大きな理由の一つとしておそらくアメリカに多く住む「中華系アメリカ人」にとてもウケたことがあると思う。そして、僕もひどく食らってしまった映画だ。

 


少し自分の話をさせてほしい。

先の大戦文化大革命などによる荒廃の影が色濃く残る1960年代の中国にとって、諸外国は輝かしい未来の象徴だったのだろう。たくさんの人々が外国に移住したと聞くし、実際私の母は父と結婚してすぐに日本に移住した。そして働きながらも姉と僕を産み育てた。

中国人として、日本語がわからない人間として、文化の違う蛮族として、優しさも悪意も母はどちらも受けてきたと思う。

そんな中で僕も僕で母に反抗したことが数多くある。家の中は中国なのに外に一歩出たら日本になるのは、まだ小さかった僕には大きな大きなギャップの一つだった。日本語は喋れたがそこに上手に日本的感覚が乗らない。ニュアンスの中に必ず中国の価値観が挟まってくる。言葉が行動に伴っていない。小さな頃の自分にとって、二つの文化に挟まれるというのは、十分すぎるほど苦しいものだった。イジメられたことは少ないけど、やっぱり少しはあった。無視されたり集団で罵倒されたり苗字を揶揄われたり。担任にこういうことをされましたと言いつけても担任は笑いながらぼくに「嘘つき」と言った。その後クラスの真ん中で「〇〇くんがぼくにこんな酷い言葉を言いました」と名指しで言わされたこと、そして「俺はそんなこと言ってない」と言ったイジメっ子の言葉を無条件に信用したあの担任のことを忘れられない。

自分が何人であるか疑わなくなったのは大学生からだ。それまでずっと自分はちゃんとした日本人ではないというコンプレックスを抱えながら生きていた。僕の名前を見て「お前中国人だろ」と不躾に聞いてくるジジイ、採用試験の時に経歴も全て書いてあるのに日本語が不自由だと思われていること。いろいろと経験もしたけど、今では自分の血に誇りすらある。中国語の会話と読み書きができることを無駄な技能だと感じたことは一切ない。

もちろん中国と中国人の目に余る道徳のなさはかなり嫌いだが、それでも僕の故郷には間違いないのだ。

 


僕はこの映画を見て3度泣いた。勝ち気で負けず嫌いの母親が見知らぬ国で産まれた我が子を打ちのめされないように強く育てようとしたこと、二つの文化に板挟みにされ自らを見失いそうでどちらかに縋ろうとする娘、どちらの心情もあまりにもよくわかるからだ。

悪評の中にはポリコレに対する忖度でつまらなかった(つまらないはそれはそうかもしれないから別にいい)というものもあったが「毒親とバカガキのくだらない家族ドラマ」という批評には当然納得できない。

中国人の母とはああいうものだ。それを日本人の物差しのみで毒親と切り捨てるのは想像力が足りていない。我が子に全てを捧げ、知らない社会に押しつぶされないように必死に抵抗することが彼女らの生き方だ。憎しみで語ることは相互理解から最も遠い。

 

映画の中でもそうだった。だから父親役の男は「君は強いけどこの国で一人で生きていけはしない。押しつぶされてしまう。だから僕は、君にはない優しさで家族を支えたいんだ」と言った。

家族愛の形が国ごとに違うのだ。優しさのみで生きていけるほど世界は優しくない。どちらが正しいかではない。ただ四角と丸と三角なだけ。形の違う愛があるのに、それを「毒親」だなんて...

僕の母の苦労や悲しみを見ていたら「毒親」だなんて言えるわけがない。だから想像は現実に届かないのだ。

 

当事者としての感覚はきっと永遠に理解することはできないだろう。僕はアメリカ人のキリスト教への感覚やロシアへの疑念を、アメリカ人と全く同じようには理解できない。銃社会の恐怖など日本に住んでいたら完全には想像できない。

でも、だからこそ僕らは想像力を使って知らない現実に到達する努力をしなくてはならない。全てを経験することはできないから。

目には目を、歯には歯をなんて現代にリバイバルさせる必要はない。下卑た行いをする人間に対して同じ目線で付き合う必要はない。ついこの間も日本人を揶揄するひどく下品な歌を歌った中国人がいたが、あれに付き合ってやる必要はないのだ。Xのポストに「天安門事件」と付けたらスパムが飛んでこなくなるが品がないよね、という話に「相手が品がないのだから良い」とする態度には理性がない。

 

怒る前に彼らを理解するほうが根本的な解決に至れると思わないだろうか。異文化を取り込む強さを持ってほしい。皆が皆流されるままに嫌悪するのは...すごく悲しいよ。

 

これが多様性の最たる難しさであり、達成する意義だと思う。

己の知性を疑うことだ。誰もがたどり着ける最良の未来は、憎しみじゃたどり着けないのだと僕はずっとずっと信じる。