ガラスの大地

詩や日記を書きます

一日千秋:日記

 

花が咲くのを止めたくなるときもある。春だって別にいいことばかりではない。

寒い冬が明けて、ぬるい風と共に優しさも入ってくるような世間の雰囲気とは裏腹に、春は別れの季節だともいうし花だって毎年散っている。

 

昔の人たちはよく花が散ることを命の終わりだとしたり失恋に例えだとしたりしたが、私たちの短い人生の機微を花にたとえられたって、納得できるほうがおかしい話だ。別に染み入る感傷がないわけではないけれど、小さな小さな出来事に心をマイナスへと揺り動かされることは、僕にはあまり好ましくない。

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ということで僕は先日、花を買ってきた。

上に書いたのはなんなんだという話だけど、それはそれとして花は綺麗だし可愛いしいい匂いもするし、密かに花を愛でる男がいても良いと思ったのだ。しかも春になって新しいことを始めたくなっていた。

 

通りに大きな花屋があるのは知っていたが、そこは思っていたより大規模な施設でいざ足を踏み入れてみるとまさに植物園そのものだった。

ライラックを育てたいと思って近くにある大きなフラワーショップに向かったのだが、当初の目的も忘れて、緑色の球根から長い海藻みたいな葉っぱがいくつも出ている植物や、脳みそみたいな形のサボテンや部屋の水分を吸って生きる乾燥した植物などを見て子供の心にふと戻って楽しんでしまった。

(ちなみにお気に入りは『帝玉』と名付けられた小さなサボテンだ。どう考えても名前負けしているそれは、棘もなくサボテンとは思えないほどぷにぷにしていて可愛らしいものだった。もしかしたら皇帝のきん〇まをイメージしているのか?)

こちらが『帝玉』だ



熱帯魚や爬虫類も販売されていたので一通り見て回ったが、実に楽しい施設だった。

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動植物は良い。喋らないし見た目も大きくは変わらないし、食べるものは一定だ。

あれこれうるさい社会の喧騒と彼らはまったくの無関係なので、部屋にいてくれるだけで安らぐ気持ちも大いにわかる。僕自身はどちらかというと寡黙な性格だと思っている。会話も脳内で齟齬がないかきちんと検証してから話すせいですごく時間がかかるし、他人を上手く理解できないので結局間違えることもしばしばある。花や魚たちは適切な対応をし続ければ僕を嫌うことはないからその点はとても好きだ。

 

でも多分すぐさみしくなる。僕は自分が思っているより孤独に弱い。

孤独を映画で紛らわしてきた人生ではあったが、結局は人の熱に触れたくなって外に出て嫌になっていた人間関係に戻る。戻ったら戻ったで楽しいことも多いので、孤独だった時分を忘れていく。

僕の脳は実に不便だ。孤独になりたくなければ孤独になりたくもなる。どちらの状態も過剰摂取は不健康なのだと知っているのに、僕はいつも近道をしてしまう。

性格的な問題もあるのだろうが、後悔する前にやめられないものかと自問することもしばしばだ。

そんな感じで今はぬくもりが欲しい時期らしい。らしいというのは、僕は僕自身のことに興味がないからだ。自分の置かれている立場やステータスは正しく理解しているつもりだが、自分の感情や興味を積極的に分析したりしない。長所短所についても深く考えたりしない。これを書きながら「この性格自体が長所であり短所なのでは?」と感じたが、すぐ考えるのをやめた。どうせ寝て起きたら忘れている。

 

どこぞの殺人鬼のように植物の心ような平穏を送りたいとは思わないが、穏やかで平和な日常を求めてはいる。朝起きて動植物の世話をし、コーヒーとトーストを食べ仕事に向かう。仕事は熱心にこなし自分にできることはなんでもやる。帰宅したら一汁三菜の夕飯をつくり、シャワーを浴び映画を見たり友達とワイワイゲームをしたり恋人と愛を語らったりする。

 

小さな積み重ねと健康的なルーティンの上になりたつものが幸福であり、そこからたまにはみ出すことが幸福がマンネリ化しないスパイスなのだと思う。花が散っていくことだけが美しさではない。ひとつひとつ進めていけばきっと私たちは幸せになれるのだ。